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弁護士手帳
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小野寺信一・畠山裕太の想いを綴ります。
2024/07/25
小野寺

【仙台弁護士会会報No.552(2022年8月)掲載】平野啓一郎「死刑について」
(死刑を存置することで社会は何を失うのか)

小野寺 信一

死刑もやむを得ない
 仙台弁護士会の平成28年7月29日の全員協議会は,同年の人権大会で出す予定の死刑廃止に関する宣言に対する仙台会のスタンスがテーマであった。
 私は宣言案の説明用に配布された政府の「基本的法制度に関する世論調査」に注目した。そこには,2014年11月に政府が実施した「基本的法制度に関する世論調査」において「死刑もやむを得ない」と回答した人の割合が80.3%に達していたが,状況の変化や仮釈放のない終身刑の導入等の条件整備如何では,存続と廃止の差が大幅に縮まっていること等を根拠に,世論は「考え悩んでいる」と結論づけていた。
私はこの部分につき,相模原市の障害者施設の殺傷事件を例に挙げながら

「残虐な殺人事件の被害者が(死刑が廃止され)加害者が生きたままでいたのでは正義が貫かれていないと憤り,マスコミを通してそれを見ている国民もそのとおりだと思うことは岩盤のように根強いのではないか。」
「この世論調査だけから「大幅に縮まっている」「考え悩んでいる」と判断するのは皮相ではないか」

という意見を述べた。

 死刑の存置が冤罪事件において取り返しのつかない結果を生むことを松山事件 を見て知っているはずの私が,廃止に踏み切れずにいた理由の一つが,オウム真理教による坂本弁護士一家の殺害事件にあった。
坂本弁護士と同じ事務所の先輩で,救出の先頭に立ち,ご遺族に代わって遺体の見分までしたO弁護士(学生時代の友人(1年先輩)で,一緒に司法試験の勉強もした仲)は,著書「証拠は天から地から」(新日本出版社)の中で坂本弁護士一家殺害事件と死刑について以下のように触れている。

「オウムの刑事裁判では,今までにない新しい体験をし,考えさせられ,問われた。坂本さんらの遺体が発見され,起訴までにおこなわれた捜査段階で検事の取り調べを受けた。私も,事件発生の1989年11月4日の3日後の7日,警察に告訴する直前に,坂本さんの洋光台のアパートに入っているからである。事件直後の現場の状況に加えて被害者としての被害感情が聴取の対象となる。事情聴取を終わる最後に「ところで岡田先生,極刑でよろしいでしょうか?」と検事が質問してきた。極刑は私たちの業界用語で死刑と同義である。私はそれまで,死刑反対論者であり,そのことを公言していた。にもかかわらずそのとき,私は「ウッ」と詰まったのである。坂本殺害犯,まして浅原は殺してもまだ足りない想いはある。しかし,自分はこれまで公に堂々と死刑廃止論をぶってきた。それが何故かそのまま口に出ない。
 身内同様,しかも私なりに自分の後継者の一人として位置づけ,事件もできるだけ一緒にやっていた後輩を,家族もろとも無残に殺されたのである。さらに5年10ヵ月もの間「生きて帰れ!」と全国に訴えて回ったのである。被害者の想いとはこういうことなのか,今まであまりに軽く死刑反対と言ってこなかったか。しばらくの沈黙が続いた。」

「私はうつむきながら小さな声で「厳罰ということで」と口をモグモグさせた。「私は,死刑反対なのでダメです」と明確に言えなかった自分を恥じた。」

 彼の躊躇と逡巡が,被害者の立場に立った経験がなければ廃止などと言えないのではないかという私の「死刑もやむを得ない」を強くしたのは事実である。

転向

 好きな作家の一人である平野啓一郎が本年6月に出版した「死刑について」 を読み,私は死刑廃止に切り替えた。説得され,納得したのである。平野氏も,当初は「やむを得ない」派であった。

「亡くなった人は,その時点で,この世から消えてしまう。人生がそこで終わってしまう。生きていれば得られたであろう体験や人との関係など,その人の「生」そのものがすべて失われてしまいます。
その一方で,命を奪った側が,その後も生き続けているとしたら?その後も人生が継続しているとしたら?その場合,「生」というものに対して,あまりにも不合理な,非対称な関係が生じており,アンフェアだと感じます。」

 前記の私の発言の「加害者が生きたままでいたのでは正義が貫かれていない」に通じるものがある。
その彼が廃止に変わった理由はいくつもあるが,私が説得された主な理由は以下の5点である。

① 社会の側の怠慢を問わなくてよいのか
 平野氏は「死刑判決が出されるような重大犯罪の具体的な事例を調べてみると,加害者の生育環境が酷いケースが少なからずある」「加害者が精神面で問題を抱えている場合もある」とした上で,

「本来なら,そういう状況に置かれている人たちを,私たちは同じ共同体の一員として,法律や行政などを通して支えなければならないはずです。しかし,支えられることなく放置されていることがあります。
放置しておいて,重大な犯罪が起きたら死刑にして,存在自体を消してしまい,何もなかったように収めてしまうというのは,国や政治の怠慢であり,そして私たちの社会そのものの怠慢ではないでしょうか。
罪を犯した人間の存在自体を消すことで,問題がなかったかのようにして,社会の安定を維持しようとしても,根本的な問題が解決されていない以上,同様の犯罪は繰り返されます。これは行政や立法の不作為と言ってもよいでしょう。」

と指摘する。

② 人を殺してもよい社会とするのか
「死刑制度というのは,人を殺すような酷いことをした人間は殺してもよい,仕方ないという例外規定を設けていることになります。事情があれば人を殺すことができるという相対的態度です。
はたして,私たちは,そのように相対的に,ある事情のもとでは人を殺すことのできる社会にしてしまってよいのでしょうか。このような例外規定を設けているかぎり,何らかの事情があれば人を殺しても仕方がないという思想は社会からなくならないでしょう。」
「「人を殺してはいけない」ということは,絶対的な禁止であるべき」
「事情があれば人を殺してもいいという,相対的な規範であってはならない」
「刑罰を科す側と科される側を比べた場合,やはり,刑罰を科す側は倫理的に優位に立っていなければならない」
という平野氏の主張にも考えさせられた。

③ 死を以て反省させることができるのか
「死刑囚が死の恐怖を感じたとしても,それが被害者の感じた恐怖と同じであると,どうして短絡的に考えることができるでしょうか?そもそも,すべての死刑囚が死に対して恐怖を持つかどうかもわかりません。例えば,大阪教育大学附属池田小学校で8人もの児童の命を奪った事件(2001年)の犯人が,幼い子供たちが感じたのと同じ死の恐怖の下で,自分の犯した罪を反省した,ということはなかったでしょう。つまりそれは,存置派の期待に反して,現実的ではない物語なのです。」

も同様である。

④ 意味を失う犯罪抑止効果
 死刑制度は,死刑になりたくて罪を犯す者に対しては意味を持たないとして,平野氏は以下のように述べる。

「「拡大自殺」などとも呼ばれていますが,人生に絶望している人が,自分の死を覚悟したうえで,他人を巻き込んで複数の命を奪うという事件が世界的に起きています。このような人たちに死刑という刑罰はまったく意味をなさず,抑止効果もありません。」

⑤ 被害者のケアの欠落
「被害者遺族と接すると,一人ひとりの抱いている感情が,とても繊細で複雑なものであることを痛感します。親が殺されたのか,兄弟姉妹か,配偶者か,恋人か,子供か,……その関係性や事件の性質も異なりますし,事件後の人生もそれぞれに異なります。犯人への憎しみの感情は否定できないでしょうが,犯罪被害者と認識されながら生きることの困難,親族間での事件の受け止め方の違い,対立,また,孤独や寂しさなど,ともかく,人によって様々です。」
「殺された人はけっして生き返りません。けれども,いやだからこそ,被害者の方々への精神的なケアや生活の支援は,絶対に必要なことです。遭遇した理不尽を取り返すことはできないからこそ,別の観点から具体的なケアが必要なはずです。犯罪に遭遇したことで生活にも多大な負担が生じるでしょう。ならば,彼らが今後,生きていくうえで困らないような手厚い金銭的,精神的,現実的な支援が必要ではないでしょうか。」
「被害者のケアが,日本ではまだ不十分だと感じるからです。」
「ところが,世間が被害者の気持ちを考えろ,という時には,ただ犯罪者の死刑にだけ同調し,そうした制度改革の切実な要望には無関心です。」

 以上5点のうち,特に考えさせられたのは,①と⑤である。①に関し,作家の髙村薫氏が安倍元首相銃撃事件について「過剰反応 民主主義の脅威」「政治の功罪 冷静に判断を」とのコメントを寄せ,末尾で以下のように述べている(令和4年7月15日付河北新報)。

「強烈な殺意を抱き,銃を自作するなど周到な準備をしていた点は,2019年の京都アニメーション放火殺人事件や21年の大阪・北新地のビル放火殺人事件に通じる。いずれの事件も,疎外されたら浮かび上がれない社会のありようが底流にあるように思える。原因がなくならない限り,同様の事件が繰り返されるリスクはある。」

 アメリカの犯罪学者レヴィンとフォックスは大量殺人を引き起こす促進的要因として「破滅的喪失」を挙げている(「大量殺人の心理・社会的分析」)。
大阪・北新地ビル放火事件の谷本容疑者の場合は極度の困窮であった。令和元年9月,家賃収入が途絶え,翌10月に預金は1万円を割り,21年1月に残っていた83円を引き出し,底をついたことが「破滅的喪失」になった。
安倍元首相を銃撃した容疑者について7月20日付の河北新報は,

「2020年10月から派遣社員として京都府内の工場に勤務。今年2月ごろから体調不良を訴え5月に退職した。給料が振り込まれていた預金口座の残高は,事件当日の8日の時点で20数万円であったが,少なくとも60万円以上の負債も残っていた。」
「「金がなくなり,7月中には死ぬことになると思った。その前に殺そうと思った」という趣旨の供述をしている」

と報じている。母の献金によって一家が破滅したとしても,その後,人間関係と経済状態のどちらかに幸運が訪れていれば,このような行動に至ったかどうか疑わしい。人間関係と経済状態の両面でギリギリまで追い込まれたことが,銃撃事件の促進的要因になった可能性を否定できない。
 髙村氏のいう「疎外されたら浮かび上がれない社会」の犠牲者を,「死刑にして,存在自体を消してしまい,何もなかったように収めてしまう」ことが「私たちの社会そのものの怠慢」と平野氏は指摘する。これには深く考えさせられた。
⑤については,ごく最近,YouTubeでO弁護士が死刑について言及している場面を偶然目にした。そこでO弁護士は,「坂本弁護士が(加害者に)死刑を望んでいるであろうか」と坂本弁護士の視点から再び死刑廃止に辿り着いた心境を告白していた。

私の「やむを得ない」の欠点
 要するに,私の「やむを得ない」は,加害者・被害者双方をよく見ておらず,平野氏の言う

「私たちは,被害者の感情を,ただ,犯人への憎しみという一点だけに単純化して,憎しみを通じてだけ,被害者と連帯しようとしているのではないか」
に陥っていた結果であったのである。この「憎しみを通じての被害者との連帯」について,平野氏は重ねて以下のように指摘する。

「私たちの社会が,加害者を死刑にすべきだという憎しみだけで,被害者とかかわろうとするのであれば,被害者と社会との接点は,ただその憎しみという一点だけになってしまいます。そうなってしまうと,被害者は「憎む人」として本質規定されてしまい,その感情にだけ拘束され,それを維持しなければならなくなってしまいます。なぜなら,「憎しみ」こそが,社会との紐帯だからです。しかし,それはあまりにも残酷なことではないでしょうか。」

①⑤の怠慢の責任が私にもある以上,受け入れざるを得ず,受け入れて良かったと思っている。

以上

1 1955年10月,宮城県志田郡松山町(現・大崎市)で火災が発生し,一家4人の焼死体が発見された。同年12月,隣村出身の斎藤幸夫さん(当時24歳)が別件傷害事件で東京で逮捕され,強引な取り調べにより自白し,殺人・放火の容疑で起訴された。公判では一貫して無実を主張したが,1960年11月,最高裁の上告棄却で死刑判決が確定。その後,第二次再審請求で,79年12月に再審開始が決定され,84年7月,仙台地裁で無罪が確定した。青木先生など当会の弁護士が尽力した。
2 本書は,2019年12月6日に開催された,大阪弁護士会主催の講演記録をもとに,2021年10月12日の日弁連主催のシンポジウム「死刑廃止の実現を考える日2021」登壇時のコメント等を加えて全体を再構築し,加筆・修正を行ったものである(「あとがき」)。
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