依頼者にとって最も良い解決は何か、
を常に考えながらサポートします。
小野寺 信一
1 6月の瑞鳳殿
鬱蒼とした木立に囲まれた長い坂を登り,瑞鳳殿の入口を右に折れたつきあたりに戊辰戦争の忠魂碑がある。慶応4年(1868)1月,京都郊外の鳥羽・伏見で始まった旧幕府軍と新政府軍との戦い(戊辰戦争)で新政府軍の勝利が確定したとたん仙台藩は厳しい立場に立たされた。京都逗留中の仙台藩家老但木土佐に対し,1月17日,会津藩追討令が下されたからである。助命の歎願があっても藩主松平容保は「死謝」という厳しい内容であった。必死のADRの末に奥羽及び北越諸藩の計30余藩とともに,新政府軍と闘った仙台藩士がここに祀られている。
2 命がけのADRと「義」の戦い
奥羽鎮撫使(総督・九条道孝)一行は,3月2日京都を発ち,3月18日松島湾入口の寒風沢島(現在の塩竃市)に到着した。3月23日には仙台に入り,藩校養賢堂を本陣とした。
会津への討ち入りを命じられた仙台藩主伊達慶邦は,やむなく千余人の兵を会津藩境に送ったが,米沢藩と共同で会津藩との裏交渉を開始した。仙台藩からの使者の中には1860年,日米修好通商条約を批准する幕府使節団の一員として勝海舟や福沢諭吉らとともに渡米した玉虫佐太夫もいた。会津藩に恭順の実を示させ,妄動を起こさないよう釘を刺しつつ,鎮撫使の方針を変更させようとしたのである。仙台藩と米沢藩によるADRの開始である。
しかし,裏で周旋工作をしていることを知った総督府下参謀・世良修蔵(長州藩士)は激怒した。彼が示した謝罪条件は,① 藩主松平容保の斬首 ② 嗣子若狭の監禁 ③ 開城 という過酷なものであった。同じく恭順謝罪した徳川慶喜の命は助け,孝明天皇の指示により京都守護職を全うしたに過ぎない容保の斬首は明らかに不公平である。会津藩がこのような条件を呑むことはあり得なかった。
しかし,鎮撫使を説得するためには ③ 開城は避けられないと判断し,懸命に説得し4月29日,現在の宮城県七ヶ宿町で行われた「関宿会議」で仙台藩は,① 藩主容保の城外謹慎 ② 領地削封 ③ 重臣の首を差し出す という恭順条件を提示し,会津藩にこれを呑ませた。同時に総督府がこの謝罪条件を拒否した場合,仙台藩も会津藩とともに戦うことを明らかにした。命がけのADRである。
並行して奥羽全体の力を結集して会津藩救済を鎮撫総督府に嘆願するため,仙台藩,米沢藩の主導の下,奥羽14藩が集まった。その動きは一気に広がり,奥羽25藩,北越6藩による「奥羽越列藩同盟」が成立し,嘆願が認められない場合新政府と戦うことが決定した。京都の治安維持に尽力した会津・庄内両藩を攻める理由はなく,又それを東北自らの手で攻めさせるという新政府軍の卑劣なやり方が,「義」に反していたからである。
しかし,嘆願は却下され,改めて会津藩の追討が厳命され,幕末のADRは失敗に帰した。それを決定づけたもう一つの事件が,仙台藩士と福島藩士による鎮撫総督府の参謀世良修蔵の暗殺である。世良修蔵の暗殺は新政府に対する宣戦布告に等しかった。
5月1日,白河城下で2500名の奥羽越列藩同盟軍が新政府軍を迎え撃ったが,大敗を喫した。以後,小名浜で105名,磐城相馬で108名,駒ヶ嶺で313名が戦死し,9月15日,仙台藩は降伏を決めた。戦死者の数は,他藩からの応援部隊を含め1260名に達した。敗因は兵器の差(火縄銃と連発銃)と寄せ集め世帯で統一的な作戦計画が立てられなかったことにある。
降伏した仙台藩は体制を一新し,ADRとそれに続く奥羽越列藩同盟を主導した首席奉行但木土佐は,東京麻布の仙台藩邸で斬首され,玉虫佐太夫も仙台で切腹となった。旧主戦派を一掃した「仙台騒擾」である。
3 西南戦争による逆転
1877(明治10)年,西南戦争が勃発した。仙台藩の士族も政府軍として参加した。瑞鳳殿の下り坂の左側に仙台藩から西南戦争に出兵した戦死者の弔魂碑「西討戦没の碑」がある。会津藩の元家老佐川官兵衛,同山川浩も政府軍として参加し,立場が完全に逆転した。
降伏した西郷軍は全国の監獄署に護送され,宮城県の監獄署にも305名が収容された。このなかには西郷隆盛の叔父・椎原国幹も含まれていた。このうち13人が獄中で病没し,瑞鳳殿入口左側の墓地に葬られた。
6基は遺族に引きとられ,現在7基が残っている。そのうちの一人,有馬純俊の享年は25歳である。
会津藩を滅ぼし,仙台藩を降伏させた新政府軍の中核が宮城県の監獄署に収容されることを誰が想像したであろうか。歴史に翻弄された彼らへの供花にふさわしく,瑞鳳殿の坂の紫陽花は哀憐の色を極めていた。
参考文献
・河北新報社「奥羽の義」
・中公新書「戊辰戦争」
・文芸社文庫「あくなき薩長の謀略」
写真(1) 戊辰戦争の忠魂碑
以 上